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柳は緑、花は紅

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1個前の記事は、書いてたときから違和感があって、時間が経つにつれ、あー、嘘書いた、嘘書いた、って後味悪くなってきた。今日はその補足。

スターチッスルを読んで、「わたしのことだ!」って思ったのは、他人の都合で自分のお金が減るのは嫌!っていう心の狭さと共鳴したからだった。

わたし、記念日が苦手だ。誕生日がなぜ嬉しいのか、なぜお祝いすべきなのか、いまいち分からない。いや、自分がもらえるなら遠慮なくもらうけど。ほしいものならね。だから、サプライズプレゼントなんていらない。喜べないことで、傷つけたことがある。

彼がほしいものを買って、彼が喜んでくれるなら、それはとても嬉しいことだと思う。あげたいと思う。でも、彼が自分でそれを買っても同じくらい嬉しいなら、自分で買えばいいじゃない?って思う。

それは彼を大切に思わないってことではなく(結果的にはそうかもしれないけど)、すべてにおいて、モノ、カネが自分から出て行くときに、不安を覚えるということ。

その割りに、お金を出すことで「何か」を手に入れたい、手に入れられるはず、っていう気持ちは強くて、必要だと思えば、「湯水のように」お金を遣う。。節約はしない。だって、足りないってことを再確認するようで、もっと不安になるから。カードを使うのも、お金をおろすのが面倒くさいってう以上に、現金が出ていくときの不安と直面したくないから。

スターチッスル:
魂の奥深いところで寛容さ、分かち合いの心に欠けていると感じる人に効果を発揮するエッセンスです。深いレベルでの「欠乏に対する恐れ」「十分でない」という感情が隠されており、これは母親との愛情に深い関連があるもので、その不足の思いを補うために物質的なものを追い求めそこに安心感を得ようとする傾向が生じるようです。(後略)
昨日ジムのサウナに合計30分も入ることになったのは、ある人に結構厳しい指摘を受けたからだった。私は、厳しい指摘を受けること自体は歓迎する方なんだけど(だってそれがないと進歩できないもん!)、つい先週、びっくりするくらい親切にしてくださった方が、一転、冷水を浴びせかけるような理不尽な非難をしてきたから、また別の意味でびっくりして、その言葉が頭から消えなかった。

今日、そのことをちらっと先輩に話したら(というよりも先輩から聞き出してくれた)、あの人は躁鬱病だから、薬も飲んでるらしいからって。え。私と同じ病ですか。単なる噂らしいけど。。。。。。ものすごく複雑な気分だった。

気分の問題なら、人格とは関係ないからな、ってのは思う。
でも、仕事の場でそれをコントロールできないのは、どうかと思う。
とはいえ、私自身も、コントロールできてないじゃないか、と思う。
だからこそ病気なんだもんな、と思う。

私は、主治医にも躁がほとんど目立たない躁鬱って言われてて、逆に軽躁状態に保つのを治療目標にしてたくらいだから、人に迷惑をかけないタイプなのだ・・・・・・だから、人に気づかれないのか?いや、気づかれてるのか?ま、どっちでもいいか、と思う。

そして、気づかれてても、仕事自体ができれば、会社内のポジションは保てるのか・・・ということを救いに思う。
「天国からの手紙」を見た。こういう番組は苦手。ラジオの「幸せのレッスン」でも、「天国への手紙」っていうコーナーが始まると、つい本を読み始めちゃったりする。

苦手なのは、いまだに人が死ぬことがなぜ悲しいのか分からないから。私には理解できない嘆き、深い悲しみ、慕情の生々しい吐露に、正直辟易してしまう。話についていけず、劣等感に近いものを感じてしまうのもある。

私は心が凍ってるだろう、って思う。冷酷なのかもしれない。この人が死んだら生きていけないなんて、思ったことない。人にも物にも、この地球自体にもそんな愛着ない。私自身が、できることなら、今生きていたくないんだから。(だから今FESのシューティング・スターが入ったブレンドを飲んでるわけなんだけど。)


にもかかわらず、今日の番組の最後の手紙では号泣してしまった。手紙の書き手である「お母さん」の言葉には力があって、愛があった。私が一度も経験したことのないものだと思った。まぶしすぎた。絆がある家族っていうのは、こうものなのかって。

生きる気力、かなり出てきたと思ってたけど、こういう人を見てしまうと、いかに自分が現世に根を張っていないか、ということを実感してしまう。子どもほしい、家庭築きたいなんて、まったく思えないもんな・・・

家族はかけがえのないものだなんて言葉、空々しい。順調にいってるフリをし続けないと認めてくれない家族なんかいない方が楽になれる、って思う。でも、こういう家に生まれたのが自分の課題なんだからしょうがない。

そもそも私がいくら親なんか邪魔だと思ってもどうしようもない。だって、実家を出て10年経った今でも、母が幼い頃に刷り込んだ影響から逃れられないでもがいているというのに。母が死んだからといって、その影響から自由になれるはずがない。逆に、ずっと影響から逃れられなくなるかも。相手が死んじゃったら新しい進展はそうそうないだろうから。(そういう意味で、私怨で殺人を計画する人間の考えが、まったく理解できない。)

父母がまだ現世にいるってことは、心が通い合う体験をこれからする余地があるってことなんだよね・・・・・・と、今月末の帰省を前にして、「頭で」考えてみる。
同じような仕事内容でも、正社員としての仕事のほうが、圧倒的に密度は濃い。責任がかかってくるから。派遣でいたときの半年分をこの2ヶ月半で吸収した感じ。もしわたしが人事の採用担当なら、派遣で働いてた人と正社員で働いてた人、同じ期間なら、派遣での経験値を・・・×0.6くらいで割り引いて見てしまうと思う。

だとしても、1つの場所に長くいられなかったわたしにとっては、派遣って制度は本当にありがたかった。そして、たとえかけた労力の0.6だとしても、0じゃない。少しずつ経験値が貯まってた。

派遣に限らず、どんなことでも、今までやったことは無駄になってない。あまり行けなかった大学も、1年も行けずにやめた会社も、何年ものひきこもり期間も。

なんといっても、今、なんだか変な自信がついてるのは、直近のひきこもり期間に、「心」について真剣に考えたおかげ。

世間とうまく折り合って生きてきた人は、そんな風に考えることがない(or そんなヒマはない)からか、私からすると、ちょっと滑稽だったりする。(「鈍感力」に感銘をうけるとかw)

世間の波をうまく乗りこなす人が、自分よりも優れていて偉いんだ、とずっと思いこんでいたけれど、回り道でしか到達できない境地があるんだな、と、今いるルートを結構気に入っていたりする。
「鈍感力」以来、働いてても本読む時間くらいいくらでも作れるじゃん、って気づいちゃった。

最近珍しく小説ばかり読んでる。今は「西の善き魔女」というファンタジー小説の4巻に入ったところ。時々ゾーッとするようなライトノベル臭さが鼻につき、はまれないことが分かっているのに、惰性でこのまま最終巻まで行ってしまいそう。完全に逃避行動だ。



読んでる間、忘れられる、現実を、生きているということを。まるで小学校の頃の再現。「放課」っていう時間が怖くて、本の虫になって、自分を守った。半分物語の世界の中に生きてたあの頃。死ねないかわりに、仮想世界に逃げ込む行動、8才の頃とまったく変わらない。(20年も経ったとはとても信じられない!)

中学校以降、小説を読むことを避けていたけど、今にして思えば、小学校時代に名作っていわれる小説を片っ端から読みあさったおかげで、私の語学力の基礎ができ、そのおかげで今なんとかご飯を食べられているわけで。逃避行動といえど、現実世界であることには変わりなく、容赦なくその責任が、良くも悪くも、未来の私にのし掛かる、と。
会社の人に、すごくいい本だよ~と「鈍感力」を薦められ。。。。借りたからには読まなくちゃと、一応最後まで読んだけど・・・・・・いやはやひどい本だった。

会社の人はこれを読んで「楽になった」ってベタ褒めだった。私、どうしても話を合わせられなくて、この本への不満がつい口をついて出てしまったけど、理解してもらえなかったみたい。「まただよ、どうせ私はいつもマイノリティ~」、って思ってたらamazonのレビューでも酷評されててちょっと嬉しかった。本当は、そんなの見なくても自分の感性に自信が持てるようになりたいのだけど。

まったく、その辺のオッサンが居酒屋で持論述べてるのか、ってくらいの浅い、一方的な内容。私が一番呆れたのは、子育てについてちょっと触れて、お母さんがヒステリックに叱ったり喚いたりしていても、平然としてるような子どもに育てましょうって(正確には覚えてないけどそんな感じ)

渡辺さんは、ヒステリックな母親に育てられて、幼年期に萎縮してしまったわたしみたいな人に、「あんたは劣ってる」って言ったことになるの(これは文脈から。鈍感=優れてる、敏感=劣ってる、っていうのが基本テーマ)。もちろん、劣ってる、って言う意味は分かる。というか、私自身が、劣ってると思い、ずっとずっとずーっと直そうと努力してきた。自分を責めてきた。でも今、「(鈍感だろうと敏感だろうと対人恐怖だろうと)これがわたし」って認めようとしてるところなの!劣ってるとか優れてるとか評価したところで、何も変わらないのに、なんでそんなことで安心したりするかなぁ。

でもま、渡辺大先生は、この本に対する非難をもしも目にする機会があったとしても「だから鈍感力のない奴はダメだ・・・」とか思ってそう。そんな鈍感力、全然うらやましくないw
前も「願えば叶う」というタイトルで書いた気がするけど。

今日の帰り道、突然気がついて声を出しそうになった。私、今、3年前の私が夢見た環境で働いてる。その頃私が会社に「こうであってほしい」と思っていたものは、すべて今の会社にある。

・・・というのに、そのことに今日まで気がつかなかったなんて。そういえば、今回の就職活動のときは、もう夢なんて忘れてたんだった。1年もひきこもった私がそんな贅沢言えるはずないと思ってた。

偶然入った会社で、3年前の夢が実現されてしまった、というのはすごいと思う。
なんのためにブログ書いてたんだっけ?(2007.04.28 私がブログを書く時の続き)

で、ふと思い出したのがekkenさんの「うんこ」の話。
僕は以前から「自分にとってのブログは脳内排泄物の処理行為」と言っているように、オナニーと大差ありません。

あーこれだー!って思った。私は思いつきが溜まってくると、出してすっきりしたくなるんですね。他に紙の日記帳を持っていて、そこには目からウロコな気づきから愚痴まで、まさにぐちゃぐちゃな肥溜め状態にしています。ブログは、肥溜めから厳選したうんこを貼り付けるアルバムだったんだ!(数ヶ月前までは、肥溜めを経由せずうんこをブログに垂れ流してましたがw)

ブログは、あくまで自分がすっきりするためで、他者の期待を満たすためじゃない。自分のためのうんこだけど、それでも食べたい人がいるなら食べれば?って。うん、そう分かったらなんだかすっきりした!

(コメント返しは、相手の感情まで考えて書くから、自分のためのうんこ並べとは全然違うんですね。逆に、他人のブログにうんこをしてしまうことがあるから、今は自粛してると、そういうことか!)
欝がひどいと書けない。
とても元気だと、時間も気力も体力も目の前の現実に注ぐから、書かない。

結局、私がブログを書くのは、”書くことはできるけど、動くことはできない”、悶々としているときが主になる。私は、行動から逃げるために書くことがあるから、「今は動くべき!」っていうとき(たとえば先日までの就職活動中)は、あえて書かないこともある。

書かないことで通り過ぎていってしまう思いや気づきの中に、本当に大事なものがあるかもしれないのに。でもまだ私には、現実とブログにバランス良く注意を振り向けることができない。だから、まとめて、忘れないうちに書き残すことにする。

過去は、今よりも綺麗に書ける。実際には、一日ごと、一時間ごとにまるで違ったことを考えて、違ったことに興味を持ち、違った感情でいたのに、過去をまとめれば、今に向かって直線的に進んできたかのように、その”物語”から外れる出来事は存在しなかったように・・・。でも私は分かりやすい物語が好きなのだ。

自分の足跡を都合の良い物語にまとめる力、面接では役立ったけど、どうなんだろ。物語では多くのものが漏れる気がする。でもそもそも100%の自分を文章で表現することは無理か・・・。なんのためにブログ書いてたんだっけ?

2007.04.29 私にとってのブログは・・・ に続く
今日は2007.02.01に書いた記事につっこみます。
精神障害者として生きることは、普通の人として生きること

まず、「精神障害者だ」とか、「普通だ」とか、そういう世間一般の社会通念に自分を(人を)あてはめることをやめにしたいと思います。他人が私を精神障害者と分類するのは自由だけど、私は自分に何のレッテルも貼りません。私はわたし、それでいきます。

「もう、いいじゃない。35までに誰かさんのようになれなくたって、80年かかって松永真理になればいいんだから。」(松永真理『なぜ仕事するの?』)に影響されただけなんだけど。今はほんとうにそんな気分。もう、誰かと同じじゃなくていい。もはやここまでくると同じにはなれないし。



作業所に入ったばかりのときに世間話ができたのは、まだ初対面の人ばかりだったから。いつものこと。それだけ。

もう何度と無く繰り返してきたことなのに、すぐ忘れて一喜一憂する。私はこのブログに何度「対人恐怖が治った!」とか「世間話ができるようになった!」と書いただろう。。。

まあ、そのときはそう思ったんだから仕方ない。安易に治った治ったというのは、その個性を本当に自分の一部として受け入れられてない証拠のような気がする。
2007.04.07 23:32 | 気づき | トラックバック(0) | コメント(-) | edit |
勘違い的共感かもしれないですが、統合失調症の憂鬱:愛って?でkenさんが表現なさっている「人が懸命に生きる姿が理解できない」「生きる事が素晴らしいということが分からない」「愛がわからない」は、私が最近まで考え続けていたことに似ているように思います。

ごく最近、「生きたい」という感覚も、瞬間的にですが、分かるときが出てきたので、変化の真っ最中という中途半端な立場から、愛について書いてみます。

***

つい最近まで、「愛」とは、どうやらそういう概念があるらしい、っていうものだった。「神との対話」の感想を書いたときなんか、概念としての「愛」に対しての典型的な反応だったと思う。素晴らしそうな概念。。。でも私には分からない・・・という・・・
2006.11.06 神との対話 (ニール・ドナルド ウォルシュ)

kenさんの「愛を具体的に答えられる人居ませんか?」という問いかけに対して思うのは、愛に限らず、感情は、それぞれの人が、自身の体験から、自分の心の中に発見していくものであって、他者が言葉で説明し、伝えることは難しいんじゃないだろうか・・・、ということ。感情とは、考えるものではなく、感じるものだということ。。。

「生きたい」という感情を生まれたときから当然のように持っている人は、「死にたい」がデフォルトの人の感情を理解できない。彼らにとっての危険思想であるから、「善意で」自分の価値観を教えてあげようとする。でも悲しいかな、それは、ほとんど効果がなかった。

過去の私だって、「生きたい」という価値観のほうが望ましいことは十分承知していた。そう感じられないことを欠陥だと思い、自分を自分で必死に説得しようとした、さまざまな本からヒントを得ようとした・・・・・・・・・・でも、分からないものは分からなかった。分かったフリはできるが。

自分が心で感じたことのない感情は、いくら概念だけプログラムのように頭にインストールしようとしても、無理なのかもしれない。

ここで勘違いしてほしくないのだが、私が愛を感じたことがなかった=私の親が私を愛さなかった、ではない。全然違う。単純に、私には「感じられなかった」ということ。他人(ここでは親)がどう振る舞ったかという事実、ではなく、私がそれをどう感じたか、が私にとっての現実を構成する。

親は親でできる限りのことをしたわけで、彼らを責めてもしょうがない。。。。。。と、こういう感じの発想が、necoxバージョンの「愛」の一片をなすように思う。
2006.12.27 母との関係に新たな視点が

「愛」については今、これ以上語ることのできる心のひだも、語彙も持ち合わせていない。しかし、一つだけ確実に言えるのは、過去の私は愛を感じることができなかったが、過去の私に愛がなかったわけではない、ということ。他人(親含む)から愛を与えられたこともあった。自分が愛のある行動を取ったこともあった。でもそれが愛だと感じる心の中のポートが何らかの理由で閉じていたのだと思う。今も完全には開いていない。

関連エントリ

スピリチュアル分野の有名本を読んでも「生きたい」という感覚は分からなかった。
2006.12.10 生きがいの創造 (飯田 史彦)

初めて「愛を感じた?」日
2007.01.31 これが愛というもの?

愛を感じられるようになってきたのと、人の顔をパーツだけ(目鼻口)で見なくなってきたのは何か関係があるような気がする。
2007.02.05 セルフイメージをぶっこわせ

愛を感じられるのはいいことばかりではない。それと等量の苦痛も同時に出てくる。
2007.02.07 普通の人になるのも辛いもんだな
今でこそ作業所に通っているけれど、私は、デイケアや作業所を利用することに抵抗があった人間だ。なんとなく、正真正銘の「精神障害者」が行く場所で、自分には縁がないと思っていた。私は一見普通に見えるし、仕事だって、ただ疲れ切っちゃって行けなくなる恐れがあるだけで、行けば十分普通にできるんだから、そんな場所に行ったら浮いちゃうんじゃないか、って思っていた。。。。。。。。全部、誤解だった。

作業所にも、デイケアにも、私以上に普通に見える人たちがいる。普通の会社でだって、”仕事ができる人”って評価されるだろうな、って思うような人もいる。もちろん、コミュニケーション能力とかも総合的に見て、だ。確かに、変わった感じのする人もいるけれど、そういう人は、私の大ざっぱな勘では全体の30%に満たないと思う。

仕事ができるできない、とか、会話ができるできない、は、心の傷の有無とは何の関係もないんだよね。そんな当たり前のことが私、分かっていなかった。

私が、正真正銘の「精神障害者」なんだ・・・。それを、今、やっと受け入れることができた。今思えば、傷病手当金を申請するときも、自立支援を申請するときも、そんなこと、深く考えていなくて、自分が世間では「精神障害者」と呼ばれるという自覚がなかった。精神科に足かけ何年も通っている身なのにねw

いかに、人は見た目では分からないか、って思う。私も含めて、一見「普通」の人たちが、それぞれ、見えない部分で闇や傷やほころびを抱えてて、その見えない部分を白日の下に晒すと(つまり病院に行ったり、制度を利用したりすると)「精神障害者」に分類されちゃう。でも、あくまで普通の人として生きているんだってこと。

もしも出会ったのが作業所でなければ、「あの人は悩みなんてないんだろうな」とか「ああいう明るい性格うらやましいな」などとうらやんでいたかもしれない人もいる。でも、注意深く観察してると、そういう悩みなんてなさそうな人が、実はものすごく繊細な神経を使っていることが感じ取られたりして・・・・・・

ちょっと、これから人を見る目が変わるかもしれない。元気そうなあの人も、この人も、みんな大変なこと、辛いことを抱えて生きてるんだよね。それに何の特別なこともない。

今日は、とにかくいつもニコニコしていることを心がけてみた。世間話も積極的にノッた。バリアばっかり張っていた前回までに較べると、格段に時間が早く過ぎ、自分が作業所での時間を楽しんだことが分かった。コミュニケーションに関する神経が鈍っているのか(汗)その分疲れもどっと出た。でも、ネガティブな疲れではないみたいで、1時間くらいで飛ばすことができた。作業所の人は、みんな、とても優しい。私は、この人達の中なら、人間関係に関する傷を癒せるかもしれない。

就職が決まって作業所をやめていくことを「卒業」って呼ぶみたい。少しずつ人への恐怖感を克服して、卒業、できますように。
タグ: 通院記録
今年は、私にとって古いもの(過去には意味があったけれども、もう今の自分には合わないモノ・考え方・習慣など)から脱却する年になりそうな予感がしています。

新年が明けて1週間の間に、2つの物が壊れ、それぞれもっと今の自分とフィーリングが合う物が自然に手に入りました。

1つはご飯茶碗。落として欠けさせてしまったのですが、陶器店の半額セールにたまたま通りかかり、1つのご飯茶碗に一目惚れしました。多少の欠けくらい買い換える理由にならないと思っていたにもかかわらず、モノを見てここまで心を揺さぶられるなんて今まであっただろうか!と思うくらいそのお茶碗に惹かれましたので、直感に従って素直に買いました。

もう1つは浄水ポットです。2006年7月からリピュールポットという浄水ポットを使っていたのだけど(necox beta2.0 おいしい水を作る)カートリッジを取り替えるときにヒビが入ってしまいました。ヒビから水道水が漏れてしまうので、浄水効果が落ちてしまいます。もはや浄水ポットは生活の必需品になっていたので、仕方ない、我慢して使い続けるかと思っていたら、彼が看病のお礼にとBritaをプレゼントしてくれました!グレードアップです!


陶器屋では、汁椀もついでに買いました。安物ですが、家で見てみると、今までの汁椀よりもずっとずっとしっくりくる代物でした。今までの汁椀は、もともと子供の頃に母親から買い与えられたものだったのでデザインが好きではなかったのです。おまけに塗装が全体的に剥げ落ちていました。でも、お椀としてまだ機能するのに買い換えるのは「もったいない」とずっと思っていたのです!

気に入って使っているわけではなく、今持っているのだから使うのが当然と、惰性で使っているものは、今後こうやって淘汰されていくような気がします。
さっきの予言は半分は当たって、半分は外れた。料理ができるくらいまで気分が回復したのは、ヘイハウス・ラジオの過去ログでデニス・リンさんのお声を聞いたから。。。。彼女の声はあったかくて、豪快で、私の鬱々を吹っ飛ばしてくれる効果がある。

テレビやラジオって、私の場合つけるのに「気合い」や「頑張り」がいるんだけど、それは自分に合う番組、好きな芸能人を知らないから余計そうなのかもしれない。「この人を見ると、この人の声を聞くと元気になるっ!」って人を少人数でも見つけられれば、その人の録画や録音を聞いて元気になれるもんね。

あー結局ブログと同じか。ブログも、この人の写真見たり文章読むと元気になるっていうのがあるもんなー。そういう人に出会うためには、いろいろ、好みじゃないのも読んで探し回らなきゃいけないっていうのも似てるなー。

ところが、好きな人のブログでも、気分が堕ちてるときに読むと、何でもない言葉に、自分の中にある汚い感情を刺激されてイライラすることもある。つまり世界は私の受け取り方によってどうにでもなるってこと。すべては私の気分次第だってこと。結局、気分をコントロールできるようになりたいな、ってこと。

20%の繋がり


人とのつながり何か縁が合って通じ合えた人との共通点って20%くらいって考えておくと、楽だなぁと思いつきました。ブログだけでなく、リアルでも。

ゲシュタルトの祈りじゃないけど、自分が書きたいことを書きたいように書いて、「それで偶然 気持ちが通じ合えたなら 素敵じゃないか 」というスタンス。その繋がりあいも良くて20%だと。もしたまたま50%くらい通じ合える人がいたとしたら、それは奇跡!くらいに思っておくと、人付き合いが楽しくなりそうです。

ブログのカテゴリーとか病名とかっていうのは、その20%の繋がりを見つけやすくするための手段だと思っています。「カテゴリー」や「名前」は、区別するためじゃなく、つながるために使いたいものです。

グレーゾーン

一言で言うのに便利なので、うちのブログには躁だの鬱だのという表現が頻発しますが、私自身は、精神的な病気(または障害)の名前には、それほど意味がないと考えています。
健常者とメンヘラーの間には、広大なグレーゾーンが広がっている、ただそれだけです。

「目の健康」を例にとれば、視力がいいと悪いのグレーゾーンがあります。見えにくいけどメガネをかけたことがない人もいれば、同じくらいの視力でもメガネやコンタクトをしている人もいるかもしれません。同様に、視力トレーニングを自力で頑張ってる人もいれば、お金をかけて病院なり教室に通う人もいるでしょう。

そういったグレーゾーンの中で線引きや対立をすることに、それほど意味があるとは思えません。

視力の場合ではあまり考えられないことですが、精神的な問題の場合、グレーゾーンの内外で区別しあったりすることがあります。病院に行ってるか行ってないか、○○という診断を受けているかいないか、など。(グレーゾーンから何らかの明らかな精神疾患の持ち主までを含めてメンヘラーという言葉を使うとして)メンヘラーの間で、この人はメンヘラーじゃない、「本物じゃない」などの話が出るのは悲しいです。

客観的な診断なんてものはありません。医者はコンピュータじゃないのですから。

私は、ひょんなきっかけで、ADD/ADHD(注意欠陥障害・注意欠陥多動性障害)の専門医院にセカンドオピニオンを求めるべきかどうか、現在の主治医に聞いてみたことがあります。主治医は、「現時点でADDと診断されても、有効な治療方法が確立されているわけではない、あなたの場合、病名を得ることによって得られるメリットはあまりないと思うので、診断を受ける必要はないと思いますよ」と言いました。

それでも診断名が気になる人へ

自分は症状が軽いから鬱病じゃなくて怠けなんじゃないか、自分はADDじゃなくて単なるだらしない人間なんじゃないか、自分はアスペルガーじゃなくて・・・・・などと思い悩む気持ちは私もすごく分かりますが、それを悩んでも状態を改善することにはつながりません。状態が良い方に向かうかどうかが一番大切なんではないでしょうか。

それに、正確な診断名をつけることが必ずいい治療につながるか?というとそうでない例もあるようです。(以下の本に載ってました)
人は自分を「癒す力」を持っている―ある心療内科医のカルテから 人は自分を「癒す力」を持っている―ある心療内科医のカルテから
黒丸 尊治 (1998/04)
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この本を読んで、上記のような思いが一層強まりました。心療内科医さんが書かれた本で、病気の「原因」は本当に必要か?幼少期の原因に気づけば病気は治る?診断が先か、治療が先か、など、、、、を具体的な患者さんの例で詳しく考察されています。

病院に通っていて、自分の診断名に不安があるとしたら、それは主治医を信頼できていない、ということだと私は思います。信頼できる医者のもとで快方に向かっているなら、それにこしたことはないと思うのです。


もし今後、私がグレーゾーン内をいい方向に移動していって、メンタルな問題を通して共通点が見つかりにくくなったら、このブログのカテゴリーを変えるときが来るかもしれません。だからといって、それまでの繋がりあい(文字通りリンク、か。)をなくすことにはならないと思います。
駄猫派さんのところで以下の記事のことを知った。
> 精神科医が警告!ウソがつけないと鬱になる

まず、この記事のタイトルは酒井和夫氏本人が考えたものなのだろうか?だとしたら噴飯モノだ。確かにウソがうまくつけることが、社会生活を潤滑にしてくれることは事実だろう。だけど、
自分をだまして精神的に追い込まれる状態を避けられる人なら、鬱にならずに済みます。
・・・って、あまりに単純な考えではないか。

私の経験から、嘘は単なるその場しのぎでしかなく、根本的な解決にはならないと思う。1ヶ月に1回くらい鬱で家から出られなくなってしまう私が真っ当な社会人としてやっていくには、嘘をつくことが不可欠だった。社会人になってから嘘をつくことはとてもうまくなったけど、嘘ついたらそれをカバーするための新たなストレスを抱えることにもなる。私は結局、嘘をつくだけでは対処しきれなくなって会社やめたけど・・・

ウソをつけば鬱にならないかのような内容の記事を、精神科医が書くのはどうか。嘘がバレた時点で信頼なくしますよ?信頼されなくなったらますます会社に居づらくなる。嘘をつくにはそういう覚悟が必要なんだから、リスクを書かずに安易にウソをつくことを薦めないでほしい。自身のクリニックへのリンクもあるが、私ならこの病院には行かない。
昨日の昼、前の会社の同僚から突然ランチのお誘いがあって都心に出た。今は同じ無職なこともあり、意外な共通項をたくさん発見でき楽しかった。楽しくおしゃべりしたのは本当に本当に久しぶりだった!

彼女が、無職にあまり引け目を感じていないのが新鮮だった。彼女の周りには、会社をやめて引きこもる人が結構多いのだそうだ。だから彼女は自分を特別だと思っておらず、友人にもありのままを伝えているらしい。
一方私はといえば、鬱になるたびに落ちぶれた自分を見せるのが恥ずかしくて、ほとんどの友人と音信普通にしてしまう。もしありのままの自分を見せてたら、彼女みたいに、引きこもる人が結構な数いることに気づいていたのかもしれない。人との出会いのチャンスを、自分で閉ざしてしまった。

「働かざるもの食うべからず」って自分を否定していたのは私だった。今日のオーラの泉でも、美輪さんが研ナオ子さん&太一くんに「自分で自分を認めてあげなくちゃ誰が認めるのよ」って言ってた。
鬱で働けない自分もそのまま肯定できれば、人に見せる顔がないって思うこともなく、自然と外に出られるようになるはず。今こうやってひきこもっている自分をいかに肯定するかがポイントだ。それがこれからの課題。

P.S. そうそう、ちゃんと鏡を見るたびに「私ってキレイ」って言っております。今日も友人に髪色やブレスレットを褒められたとき、否定せずにありがとうって言えた!
ごく小さい頃からメンヘル志向だった方と、大きくなってから何かのきっかけ(失恋や仕事のストレスなど)でこの世界に入った方とがいる・・・・ってメンヘル関係のブログを読んでいて思った。

私は前者だと思う。ずっと軽度だから、重度の方の気持ちは想像できないけど、後者の方の気持ちはもっと想像できない。

「鬱が治る」という表現に違和感を覚えるのはそのせいなんだと思う。後者の人々は、鬱になる前の状態に戻ることが「治る」ということなんだろう。小さい頃からずっと人が怖くて、このまま死ねるものなら死にたい、明日が来るのが怖いと思っていた私は・・・何を目標とすればいいのだろう。
さっきのエントリを書き終わって特にそのタイトルに嫌悪感を覚える。もう診断名なんてどうでもいいと強く思ったはずなのに!こうやって分類に自分をあてはめていくことで、どんどん自分を病気にしてくのだ。

病名は便利なツールだ。医師が書類にサインすれば、社会保障制度を利用できる。病名を人に教えれば分かった気になってくれる。こうやってブログに書くことで、”類トモ”を見つけられるかもしれない。
でも、自分がその病気だと思いこむのは危険だ。病名なんて「明るい人」とか「真面目な人」っていう形容と同じくらいいい加減なもの。

病名と病名の境目や、病気と病気じゃないの境目があるとしたら、自分の意識だけだと思う。(結局「病は気から」ってやつ?嫌いな言葉だけど。)
ほとんどの人は雑談するのが楽しくてしょうがないみたいなんだもの。こんな悩みは自分だけ?と思っていた。お昼ご飯時や休憩時間が仕事中より苦手、なんて言う人を私のほかに知らない。

他人に興味がなく雑談が困難です(2007/02/12追記 発言小町のURL変更に伴いURL変更)という掲示板を見つけたときはすごく嬉しかった。

多くのコメントを読んで、私だけじゃないって分かった。私は少数派なだけ。分かる人には分かる、分からない人(大多数)には絶対分からない、ていう類の問題なんだ。分からない人は幸せだね。

本当に?

トピ主を一方的に非難するような意見を読んでいると辛くなった。何も傷口をわざと開くようなこと言わなくても。雑談が楽しくできても、人の立場になれない人はいるんだ。私が肩身が狭い思いをする必要なんてないんだと思った。

コミュニケーション力っていうのは雑談が楽しくできることだけじゃない、っていう当たり前のようなことに気づいたら少し元気になった。必要以上に「雑談」には囚われないようにしよう。

とはいえ、私がいいな、すごいな、こうなりたいな、って思う人たちは皆雑談上手だ。そういう人は質問するのがうまいと思う。それにひきかえ、私は全然聞きたいことが浮かばないので相槌だけで終わってしまう。

質問できないのは相手と話題に興味がないからだ。だから興味の幅を広げよう。「好き」集めをしよう。赤ちゃんのような好奇心を取り戻そう。

   

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