necox

柳は緑、花は紅

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フラワーエッセンスの効果なのかどうなのか、忘れていた母に関する思い出が噴出してくる。

前の記事(necox beta2.0 母との関係に新たな視点が)では、母が私の表面(世間体がいい優等生としての私)しか見ようとしてくれなかった、本当の私(対人関係に不安を抱えたコンプレックスだらけの私)には全然気づいてくれなかった、という寂しさのような感情を思い出した。そして、それは、私が内面を見せるのを拒絶していたからでは?というところまで思い至った。今回はその続き。

母は私の不安に本当に気づかなかったのか?

何度も自問するうちに、新しい記憶が蘇ってきた。「私は、対人関係に不安がある素振りを見せると、頭ごなしに叱られていた。

人並みに振る舞えていないところを見つかると、厳しく叱られた。
「どうしてオドオドするの!」
「また体をクネクネして!」
「みっともない!」

私は、叱られるたびに、自信がないことをうまく隠せなかった自分を恥じた。
「まだ演技が足りない」
「もっと完璧に本当の自分を覆い隠さなきゃ」
・・・・・そうやって、私は自分の内面をそのまま見せることは恥だということを学び、表面をますます取り繕うようになっていった。

攻撃されることが分かっているのに、弱みを見せられるはずがないよね。母はいつも私から根掘り葉掘り情報を聞き出そうとしていたにもかかわらず、私が内的葛藤を話すことができなかったのは、ありのままを話して傷つけられないという安心感を母に対して感じたことがなかったからだった!

「私をもっと注意深く観察すれば、きっと分かったはずなのに!」という、私の母に分かってほしかったという思いは的はずれだった。↑のように母が私を叱責していたからには、母は分かっていたとしか思えない。で、自信がなさそうな子供に「何をオドオドしているの!」って強く叱りつけておけば、自信を持つようになる?んなわけないだろうに・・・・・・。

恐らく、若かった母は、オドオド人の機嫌を伺っている私に、母自身の嫌な部分を投影して、苛立っていたのだと思う。母自身、人と関わるのが苦手っぽいところがある。でも、それを見せまいと必死で努力しているような、、、、、そういうところがある。娘には自分のようになってほしくない、という気持ちや、社交的でない自分のせいで、娘が非社交的になっている(かもしれない)というような後ろめたさなどが混ざって、頭ごなしに叱りつけるという態度しか取れなかったのだろう。

今も、母にありのままの自分を話すことはない。何も言わない。「普通の親子はもっといろんな話をするものよ!」と言われても、私は、ありのままの自分を言うことはできない。私は母に傷つけられない、という安心感をいまだに持てていないからだ。

でも、あともう一歩のような気がする。私は母から学び取った「私は私でいてはいけない」「私の思うことはすべて間違っている」という呪縛から脱しつつあるから。私は、いつか自分自身の信念にもとづいて生きられるようになる。母を含めた他人に何と言われようと、傷つけられないようになる。そうなったとき、母にも本当に自分を見せられるだろう。誰に対しても、どんな場所でも、本当の自分でいられるようになるだろう。あともう少しだ。

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