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柳は緑、花は紅

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掃除したいモードは続いていて何より。

これは昨日処分しようと思ったけどキープした本の1つ。例によって中古で105円で買って放置してた。でもこれはいい本だ。
いまやろうと思ってたのに… かならず直る―そのグズな習慣
著者: リタ・エメット
発売元: 光文社
発売日: 2001/04

だってまだ最初の方しか読んでないのに動き出しちゃったもの!

p46の<<補習>>

1 タイマーを買う
2 先延ばしにしていた仕事をひとつ選ぶ
3 タイマーを一時間にセットする
4 選んだ仕事を始める。休憩は取らないこと
5 自分を褒めてあげる

これ使って今一時間片付けした。。。。ちゃんと1と5があるところが分かってるなーという感じ。

経験上薄々分かってるけど、うまく頭で整理されてなかったり直面したくないから見ないフリしてるようなことがズバズバ書いてある。いい言葉もたくさんみつかりそうな・・・良書。

でも訳がところどころ違和感。なのでThe Procrastinator's HandbookをAudibleでダウンロードしてみた。Abridgedなのが残念だけど、これで今週の1人お昼ご飯も怖くない!
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何もしたくない。汚部屋ってやつ真っ盛りになってきて、文字通り足の踏み場がない。

「何もしたくない」って思うことは同じでも、客観的には数年前と比べ物にならないくらい行動できてる。外出してネイルサロンいったり図書館いったり本読んだり。それなのに「何もできてない」って思うその思考は歪んでると思う。

でも思ったことがすなわち自分にとって事実なんだからしょうがないんだな。
最近、急に雑誌を読むのが楽しくなった。

お金を楽しく使うことを覚えたのと絶対関係してると思う。ほしいものアンテナが急ににょきにょきいっぱい生えてきたので、雑誌見てるだけで記事でも広告でもいっぱいひっかかってくる。あ、これいいな♪これほしい、このブランド名覚えておこう、こうやって合わせればいいんだーみたいな新しい発見が、、ありすぎ。

生きるのってこんなに楽しいことだったんだなー。ファッション雑誌って、小さい頃からいったいなにが楽しいんだかさっぱりわからなかったのに。つい最近まで、どのページも似たような女の人が似たような服きてポーズ取ってるだけにしか見えなかったのに。

今日は雑誌の広告で「ハピコレ」を知った。ベネッセが4月から始めるデアゴスティーニ風のグッズ付き通信講座。デアゴスティーニと違って6回でちゃんと完結するから現実的。「おうちネイル」が気になるので資料請求してみた。

アロマ」も自分でいろいろ買い揃えてしまう前の段階だったら、これ良かったかもしれないなー。生活の木の精油がついてくるらしいし。生活の木の3ml瓶は出しにくい、というか1滴が出せなくてボタボタ出るけど・・・初めてなら十分だよね。(ボトッって出てしまうときの対処法とか教えてくれるんだろうか^^)
なんなんだろうな・・・最近のこの変化は。一時的なものにしては、かなり長い。どうせ躁状態だろうと思いつつ乗っかっていたんだけど、どうも違う??

とにかくエネルギーが途切れない。無気力とは程遠い。(ほとんど)死にたくならない。フットワークが軽くて、「やろう」って思ったらほんとうにその場でやれる。

ぼーっとしてて手に負えない、ってことがほとんどなくなった。たとえば、出さなきゃいけない郵便物を手に持って歩いていても、知らないうちに何箇所ものポストを通り過ぎて、気づいたら家だった、ていうようなことが今までは普通にあったけれど、昨日はポストが自然と目に入ってきて、投函できた自分に驚いた。

時間の感覚がかなりある。計画を立てられる。体のすみずみまで神経がいきわたっている感じ、というか「今」にとどまれている感じ。いやほんとに、ADHDじゃなかったんだな、診断は正しかったとまじで思うよ。

躁状態にしろ、ずっと続く変化にしろ、今生きるのが軽いことは事実だ。軽くて、まるで羽根が生えたみたいだ。
久々にすべきことのない週末で、糸の切れた風船のように手持ち無沙汰な時間を過ごしている。

いや、やるべきことはいっぱいあるのだ。読んだほうがいい本とか、掃除とか。風邪で伏せってる間また無気力に戻ってしまったから、家は荒れ放題だ。台所からは異臭が。冷蔵庫なんて1週間あけてない。昨日きた野菜も玄関においたまま冷蔵庫に入れてない。何もしたくないんだもの。ちょっと本読み始めても興味持てず。生きていることがつまらない。つまらない。

私は、まじめだし、努力家だし、向上心もあるし、忍耐力もあると思う。でもそれは、他人が見ている前で、っていう条件付きだ。1人になると、何もかもどうでもよくなる。

外にいるときは、1人になりたくて、なりたくて、1人の週末を待ち望んでいるのに。家の中に1人・・・・・・それは、私にとってリラックスへの道ではなく、無気力へまっさかさまに落ちることだと、ようやく、分かってきた。

「人といると疲れる」それが私だと思っていたのに、最近おかしい。会社でも、一言もまともな会話をしなかった日より、人と関わる回数が多かった日の方が、疲れない。人と接する方が、疲れないですむってどういうことよ。相変わらず、人が怖いのに、雑談だって緊張するのに、人と接しないと、もっと疲れるだなんて。

何か行動をする気力はないけれど、何もしないのも手持ち無沙汰で、結局ネットサーフィンをして時間をつぶすことになる。ネットにつなぎさえすれば、読み物には困ることはない。ニュースサイトなんかいって、リンクたどっていれば、あっという間に時間は過ぎる。

でもふと、すべてがあまりに他人事でむなしくなる。自分がそこに所属しているという感覚はない。この閉ざされた空間のモニターから、世間の人々の活動を、気配を殺して、覗き見しているだけのような気がして。
2008.10.11 22:35 | 無気力 | トラックバック(-) | コメント(-) | edit |
検索しててヒット。
死にたい気持ちから解放されたい

この質問者、私がずっと疑問だったことを言葉にしてくれてる。私が「死にたい」って思うのがうつ病なら、私は幼稚園児の頃からうつ病だったことになってしまう。これは病気なんかじゃない。でも死にたい、消えたい、毎日そう思ってる。もう25年以上?も、死にたいと思いながら生きてきてしまった。

「うつ病」のヒトには、戻りたい「あの頃」があることが多いみたい。そういう意味では、私は今が一番楽だから、たとえば20年前に戻れなんて言われたらゾッとする。もう1回これをやるなんて。だから、これから20年生きることを考えてもゾッとする。あの時主治医は、年を取れば楽になることが多い、って言った。私はそれを心の支えにしてる。

この回答者の問いは、核心を突いていると思う。
・死に何を求めているのか?
・どうしてそう思わなければ生きて来れなかったのか?
・死ぬよりも辛いことって具体的になんなのだろう?

この問い、全然答えられない。よく分からないけど、これに答えるのは、何かとても怖いことのような気がする。
2008.08.19 00:54 | 無気力 | トラックバック(-) | コメント(-) | edit |
「なにもしたくない」とか毎日思ってたことがそういえばあったんだっけ、と思いだした。すごく遠い昔のような気がする。

「できないんじゃない、やらないだけだ」とか、「やる気がないだけだ」とか言われたことがあったけれど、私にとって、「やる気が出ない」ってのは「できない」とイコールだった。それは今でも同じ。裏返せば、私にとって「やる気がある」ってことは「できる」ってこと。

たとえば英語が流暢に操れるようになることだとか、40kg台になることだとかは、もう、このままいけば実現可能だと思ってる。たとえ今がどうあれ、ね。

意欲は貴重。またいつなくなるかわからない、っていうのはあるんだけれど、それだって同じようにずっと続くわけじゃないし。
2008.06.19 23:34 | 無気力 | トラックバック(-) | コメント(-) | edit |
きょうも朝目が覚めて困ってしまった。横になっていたいほどだるいわけじゃない、何かをしたいのに、何もかも面倒くさい。気ばかり焦って、何もなしに起きてるのって地獄だ。

最近はこんなだから「やりたいかもしれないこと」に手を出してみている。DVDがそのひとつ。他の人が楽しいと思うらしい、DVD鑑賞を自分も楽しいと思えるようになりたくて。

「デスパレートな妻たち」、1巻目を先週見て、これなら見られるかもしれないと思ったから、今2巻目を見た。まだ、義務で見てる感じがぬぐえない。人の顔の判別で疲れてしまう私は、やっぱり本を読むほうが楽だな。それに本なら数時間でもっと話が進むのに。

DVDは時間がきたら終わるってのがいい。終わったときほっとした。ずっと続くんだったら、ずっと惰性で見てるかもしれなくて、あとでものすごく疲れるだろう。そのときの虚しさっていったらないだろう。まさにそれがテレビが見れない理由だし。だからほんとは同じ理由でネットからも遠ざかるべきなんだ。テレビやラジオは、うるさくて、疲れるから、自動的に避けるんだけど。

自分が楽しいって思うことがないから、人が楽しいと言っていることをやってみるけど、楽しみが引き出せなくて泣きたくなる。私にはやっぱりDVDとかテレビとか見るのを楽しいと思えないみたい。

自分が何をしてたら楽しいのかわからない。

昨日は、彼に花見につきあってもらった。寒かった。

土曜日日曜日はすぐ過ぎてしまう。終わったらまた会社へいかなくちゃいけない。働きたくないのに、会社が怖くてたまらないのに、仕事以外にやりたいことも楽しいことも何もなくて、結果的に仕事人間になってる。泣けてくる。何もしたくない。生きてるのが辛い。

***

うんやっぱり、ブログに吐き出すとなぜか。楽になる。これから浄化スプレーを作り直そうかな。部屋の空気が軽くなればリラックスできるかも。
家が汚いのは今に始まったことじゃない、休日動けないのも今に始まったことじゃない、どころか、昔に較べたら、ずっと綺麗だし、動けてると思う。

今、家のことを掃き溜めだとか、そんな家にいる自分を腐敗しているとか思うのは、思えるのは、外の明るさの中で目をしっかり開けていられるようになったから。ふりかえると、家があまりに暗く、重く、澱んで見える。実際、気が滞ってるのは分かってる。私のエネルギーを奪ってるのも分かってる。でも、昔は、そんな家でさえ、ソトでの痛みに較べればマシだった。
今、梅田(モッチー)さんの新刊を読んでるわけです。(自分の本について書かれた記事は全部読むという彼が、こんなつまんない記事を無駄にチェックしなくてすむようにあえてぼかす)

今2つの道に揺れてる。
A. 会社に毎日行けてるだけで十分すごいよ、あんまり頑張りすぎるとまた堕ちるから、無理しちゃだめだよ。
B. 毎日どうにかしのいでるだけでは、どこにも行き着かないよ。勉強しようよ、やれるだけやってみようよ!

結局A. を選んでるわけだけど、こういう本読んでると、B. の道へ走り出したくなってくる。そして、私には、走り出そうとも、どこにも行きたいところがないことに気づく。好奇心のなさ、興味の薄さ、怠惰、無気力、、、、、そういう自分には、キッツイ本だ。

たぶん、近道はないんだろうね。「好き」の再発見から始めるしかないんだろう。

すごく遠回りに思えるけど、昔好き「だった」ものを振り返ることにした。昔はまった本を買って読んでいこうかな。一体何が子どもだった私の心を捕らえたのか。本棚から怪しいスピリチュアル本を一掃して、好きな本で埋め尽くす、そんな日がいつか来たらいいな。
朝、駅まで急ぎながら、幼稚園の頃から何も変わってない、心の重さを思う。
どう振る舞ったらいいか分からずに、妥当な行動を想像し、演じた。
いつも人の顔色をうかがって、演技が妥当だったかを確認する。
今も。
何も変わってない。

ああ、私だけが何をすべきか知らないのだと思う。
私だけが分からないのだと。

私にはできることがあった。
私にだけできる、ことは優越感を満たしてくれた。

私は今も軽んじられる。
今も影が薄い存在。
今も自分が「機能」を果たすことで存在を確かめようとする。
幼稚園の頃から変わってない。

他の人は、仕事をする「機能」である以前に、感情を持つ「人間」であるらしい。
だから、私もそう見えるように、「笑う」というコマンドを出す。
たまに、笑うべきときに笑えず、笑うべきでないときにニッコリしてしまう。
でいて人の反応を伺ってないフリをする。
わたしは、うまくニンゲンやってるだろうか、という疑問なんて持たないフリをする。

ちゃんと人間の感情を持ってる人たちが、いろんな人間関係の悩みにもだえ苦しんでることは、知識として知ってる。
わたしは取り残された寂しさと虚しさだけを感じる。
悩みはない。ただ虚しいだけ。すべてが虚しい。
この世界に生きていることに違和感を感じるのだ。普通の人の悲喜こもごもの日常よりも、人の心を持たないなどと非難される犯罪者のほうに、より共感したりする。でもそういう「異常な」心にすべて、共感できるほどの暗黒面も持ち合わせていない。疎外感。。。

わたし、親が死んだら悲しめるのかな。
もし、自分が不治の病と申告されたら、喜ばないでいられるのかな。

生まれて来たくなかった。なんで動物に生まれなかったのだろう。猫なら、生きても20年、もう今頃死んでいられたのに。はいはい、シューティングスター、ワイルドローズ。
1週間で一番辛いのが日曜の夜と月曜の朝だ。

前はいつも溺れかけてアップアップして、時々海水を大量に飲み込んだりして、今にも沈みそうだったけど、今は顔を水面に出してられる時間が長くなった。 」って書いたことを、今わたし溺れてるよーって思うときに決まって思い出す。

家に1人でいるときはほとんど溺れてる。このままじゃ、そのままゴボゴボと溺れていくんじゃないか、明日になっても浮上できないんじゃないか、っていう不安がすごくあって、最近は週末が辛い。休めるっていう安堵よりも、それをきっかけに鬱堕ちする不安のほうが強い。

今、わたしの部屋はものすごく汚い。鬱のときの汚さそのもの。何もしたくないんだもの。基本的な家事(皿洗いとか掃除とか)がまずできてないし、その上に、夢の残骸っていうのかな、行動を起こしたものの、途中でそのまま放り出したものがあまりにたくさん。ほつけたのを直しかけの服、ファイリングしかけのメモ用紙、昨日使ったままの状態の化粧品、作りかけのネックレス、ぶっちゃけてそのままになった水晶ビーズ、食べ終わった皿、読みかけの本、昨日持っていったまんまの服、、、1つ1つは前向きな思いが付着しているモノも、まとまってゴミと化し、私の気力を奪う。

今日は起きたのが16時だった。寝て気力がわいてくるんならいくらでも寝たいものだが、そうはいかない。辛すぎ。少しでも片づけるか、明日のために。そう思って腰を上げられるなら、苦労はないのに。吐くような思いを、、、握りつぶし、、、働くロボットになれたら、楽なのに。
昨日は久々に家から一歩も出ない週末だったせいで、今朝のつらさはいつも以上だった。月曜日の朝は毎週毎週、吐き気との闘いだ。行ってしまえばこっちのものだけど。

わたしは、家が特に好きなわけじゃないらしい。ただ、外よりマシっていうだけ。だから、家から仕事に出かけるのもそりゃあ億劫だけど、仕事から家に帰るのも億劫。

どこかを(さしあたっては家を)、自分の居場所っていう風に思えるようになれたらいいな。いつか、「早く家に帰ってリラックスしたい」なーんて、思えるようになりたいな。そしたら、家に「手をかける」こと、自然にできるはず。
Yahooに新しくアカウントを作ろうと思い立ち、思いがけない場所でつまずいた。「秘密の質問」。これって確か以前は「ペットの名前は」とか、「母親の旧姓は」ってのが定番だったのに、いつのまにか一新されてる。それは別にいいんだけど、私にとって答えようのない質問ばかりでうんざり。

秘密の質問

この質問考えた人って、よっぽど生きる気力に困ったことのない人なんだろう。○○が好き、○○がしたい、○○に行きたい!っていう気持ちが持てなくて困ってる人のこと、想像できなにのかな。

好きなものがなくても嫌いな食べものくらいあるだろうって?私、特に好きな食べものもないかわりに、特に嫌いな食べものもない。これだけは何が何でもダメ!っていう食べものの1つくらいあったほうが、人間らしいと思うのだが。

スポーツだとか、アーティストだとか、何か憧れるものだとか、、、、なんでもいいけど、大好きなものがある人ってすごく羨ましい。わたしには何もない。正直、何もかもどうでもいい。

鬱の人の日記読んでも、好きなことはあるみたいだから、気分障害の問題とはまったく別の問題だと思う、いや、問題でもなんでもない。ただ、私はそういう人間だというだけで別に不自由してないけれど、こういう何かのきっかけで疎外感を感じてしまう。もう少し、生きることや、他人のことに興味を持てたらいいんだけど。

それはさておき、そもそも、秘密の質問として、どうなのかと、疑問に思う。応援してるチームとか、その人をある程度知ってる人にとっては、秘密でもなんでもないんじゃないか。
料理や家事が少しできるようになったのは、キャンプがきっかけになったかも。自然の中では、自分が動かなきゃ居住空間すら保てない。そういうのを少し経験したら、快適な家の中でほんの少しだけの「手をかける」ことを、前ほど厭わなくなった。

今習ってるメイクも、技術をみがく以前の問題として、少しだけでいいから「手をかける」、そのための「時間を作る」、ことから始めるつもり。大体、今の私の化粧時間はたったの1分、会社の最寄り駅のトイレでファンデーションと眉だけ!

だって、メイクよりも風呂や朝ごはんのほうが重要なんだもの。それやってると、時間ギリギリになるんだもの。

いまだにノーメイクが恥ずかしいっていう感覚がないんだよね。。。。。。もっとメイクがうまくできるようになって、メイク顔のほうがスッピンよりもずっといい!って自分で思えたら、メイクは自分にとって気持ちいいことに変わるはず。メンタル面にもいい影響を及ぼすはず。それなら、頑張って早く起きてでもやるでしょ?

綺麗を作るために朝早く起きるっていう、そういうことにも、エネルギーを回せるようになればいいなあっていう、それが私がメイクを習う目的みたい。

フラワーエッセンスのカウンセラーさんが言ってた。「私にはエネルギーがない」っていう前提に立ってると出し惜しみする。するとますます枯渇するって。私は数ヶ月前までまさにその状態だった。部屋の中で一歩動くのすら辛かった。お風呂に入るって行動を選択するだけで、すごいエネルギーを絞り出してる感じだった。

「エネルギーは自分の内側からどんどん湧いてくるもの」っていう前提に立てば、惜しみなくエネルギーを使って、後から後から湧いてくるって。わたし、そのサイクルに乗ろうとしてる、って自分で思う。

てか、そういうエネルギーの原理、前からここにも書いてたけど、頭では分かってた。でも、どうやって、悪循環から好循環にスイッチすればいいのかが分からなくてもがいてた。

私はどうして、今這い上がって来れたのだろう??前の自分のあの大変な、重苦しい感じ、もうちゃんとは思い出せないくらいで・・・・・・いつの間に、何がきっかけで、変わったんだろう?自分にも気づかないうちに、スイッチが切り替わった瞬間が来てたのかもしれない。
私には、一般的な意味の悩みがないらしい。

・仕事の悩みがない。
人と一緒にいること自体が辛くて消えたくなるだけで、それは自分との葛藤。人間関係の悩みというレベルまでいかない。
・容姿の悩みがない。
自分の容姿にそれほど興味がないし。
・お金の悩みもない。
もっとお金があったところで今より精神的に満たされるとは思えないし。

友達はいないけど、優しい彼がいつも見守っていてくれるし、両親もなんだかんだいって悪い意図がある人ではないし、会社などで出会う人は優しい人ばかり。

わたしは、すごく恵まれてると思う。借金があるとか、顔に目立つ傷があるとか、意地悪な上司がいるとか、暴力を振う夫がいるとかだったら、わたし、それを考えることで精一杯で、「生きていたくない」なんて思ってるヒマなんかないかもしれない。

会社の人が、私を心配して愚痴を聞き出そうとしてくれる。でも愚痴なんてあるはずもない。こんな無気力な私があんないい環境で働けるだけで幸せ。わたしの悩みは、生きることに喜びが感じられないこと、喜びだけじゃなくて、喜怒哀楽全部が薄いみたい。私もあんなムカツクことがあったー!って思えたら、人間らしいと思うのに。

ただただ虚しい。1年後も生きていなければならないかと思うとゾッとする。無理に生きる意志があるフリをして会社に行くことを、このまま、繰り返して・・・いつまで繰り返せるのかな。会社の人は、愚痴でもなんでも、本音を言って欲しいという。だからといって、こんな本音、カウンセラーやブログ以外、誰にも言えやしない。
昨日に引き続き、また床の上で寝てしまった。このまま起きていよう。今週は特に、会社を出ると消耗しきっている。

最近ブログがなかなか書けないのは、「死にたい」とかってのは、生き抜くと決めたからには、言ってもしょうがないこと、考えてもしょうがないこと、もちろん、書くなんてもってのほか、と思うから。死にたいなんて思ってないようなフリした文章を書いてはみるけれど、いかにも机上の空論で、嘘っぽい。

結局、いなくなりたいのは、否定できない今の本心。ずっと、死にたい、いなくなりたいっていう言葉を心の中で否定することの繰り返し。(※病的なものじゃないのでご心配なく。私にとって死にたいのはデフォルトですから・・・)否定に否定を重ねた肯定では、上に上がっていけない。ただ溺れないように足掻いているだけ。少しずつ、少しずつ、ずるずる堕ちていく。蟻地獄から抜け出したい。

会社ではなんとかやれてるから、問題は、会社以外の時間を楽しくすることだと、思ってはいるのに、死にたいという独り言を否定してるうちに眠ってしまう自分が情けない。カウンセラーさん、みつけたいのに、調べる気がしない。7月末(入社3ヶ月)になっても、この状態が続いていたら、主治医のところに行こうと思う。
明日から働き始めるという今日、部屋に備え付けの電気コンロが壊れた。急遽大掃除し、大家さん、電気業者を呼んですったもんだ。費用を折半すると言われ、不動産屋に交渉したが駄目だった。疲れた。

疲れて、何もしたくないから、ぼーっとしてた(今は復活、早い^^)。おお、「原因がある」無気力だ、とちょっと感動してた。ちゃんとしたニンゲンっぽくて嬉しい。どうせ、働き始めたら、こういう機会は多くなるんだから予行練習みたいなもんだ。

1ヶ月前くらいに冷蔵庫も壊れたし(冷凍庫は冷えず、冷蔵庫のキュウリがシャーベットになるw)、働くと決めてから、色々なものが壊れる。これからちゃんと働けば7月くらいには買い換えられるだろう。就職してなかったら、夏場も壊れた冷蔵庫を使うしかなかったわけで、すごいタイミングといえばすごいタイミング。

どっかで読んだのは、エネルギーの変化の時期に電化製品が壊れるとか。そう考えるとなんだか嬉しいから、そういうことにしておこうか。

無気力状態は「今は」脱出してるんだけど。旦那様は霊能者の記事↓を読んでダーッと涙が。

実は・・・霊感を持った人にも、人の評価と自分の評価がとてもかけ離れてしまうことが多い。
(中略)
ところが、人にない能力を持っているから、
「頑張って努力もしていない、自分にとっては普通の事→努力した事より評価される」って事が頻繁に起きる。

大して(失礼・笑)努力をしていない事でも「凄いね、どうしてそんな事がわかるの?」とか「どうして、そんな事が見えるの?」なんて言われている内に・・・

頭の中が混乱(苦笑)

「時に自分が偉いと思い込んだり、そうかと思えば普通の事が評価されないでいらいらしたりするんだ」

こうして、他人の評価と自分の評価がずれてしまっている人には共通した次の段階がくる。

「自分を守ろうとして、無口になったり、目立たない様にしたり、時には引きこもったり、或いは転々と職や住居を変えたり、逆に思い切り突っ張って強がったりするんだよね・・それが自分を守り、世間と上手くやる為の護身術なんだ」

だけど、それだけではないらしい。

「心のどこかで、『これだけ私には力があるのに何で評価されないんだ』と思っているんだよ」

だからなのか、こうした評価のずれた人は、我慢して合わせてどこかで働いてもすぐにトラブルが起こったりしやすい、いずれ我慢の限界を超えるような事が起こったりする。


霊能力ではないけど、私の人生は「大して努力もしていないことが、努力したことよりも評価される」ってことの連続だった。。。。。。やっぱり、このこと辛いと思ってもいいんだよね?

語学や勉強、「努力していないけどできちゃうんです」って正直に言ったら嫌味になるって、小学生くらいで気づいたから、それ以後は、一応、努力してできるようになったフリをしていた。そのかわり、雑談をどうしたらいいのか、とか、普通の振る舞いができないこと、他の人が興味があることに興味がないことにものすごく悩んだ。でもそんな悩みはないフリをして、隠れて努力して、それでも、人並みの行動が取れず、馬鹿にされたり、嘲笑されたり。。。するのを逆手に取っておどけてた。

私が耐えていたのは、他己評価と自己評価の混乱だったんだ。
他己評価に合わせて、何重にも嘘を重ねてたら、自分の居場所なんて見つかるはずないのにね。「何もしたくない理由」で書いたことともかぶるけど、もう他人の評価を第一基準にはしなければいいんだと思う。もう、他人の期待に応えて「フリをする」ことはやめる。

「努力をしなくてもできること」は、私の重要な武器なのだから。これまでそれが嫌で、錆び付かせていたけれど、思う存分磨いていくから。でもそれだけだと、攻撃を受けてしまうかもしれない。だから本当の人間性を磨かなきゃ。
「世間からの評価で自己確立が出来ないから、修行や武道などを何でも良い。
それを通じて自己を見つめ、検証する事が絶対に必要」
これは、以前主治医が言っていた「上達が目に見えるような何か」と同じなんだろうな。私には何ができるだろう?何をやりたいだろう?
私が2人いるらしい。「わたし」と「表向きの私」。

「表向きの私」は他のニンゲンがそばにいると、自動的に「わたし」を乗っ取る。「表向きの私」のエネルギー源は他人の目。感情はないか、あっても把握できてない。頭を高速に回転させて、その場で適当と思われる言葉を吐くだけ。前向きで、アグレッシブで、責任感が強く、よく働く。

1人になると、疲れた~・・・ってぼーっとしてるのが「わたし」。「わたし」にはエネルギーの源がない。まるで枯れ果てた井戸のように、いつも無気力で、できれば何もしたくない。いつまでも眠っていたい。会社で落ち着けるのはトイレの個室の中だけだよ(涙)、、、ってトイレに居座ってたのは、「わたし」。この1年、1人で部屋に閉じこもってたのは、「わたし」を自分の中心に取り戻すためだったのかも・・・。

今日気づいたんだけど、この2つの人格は、別々に成長している。「表向きの私」・・・場数を踏むうちに使える表現や行動のストックが増えていくから、ちょっとした形式的会話は、(頭を回転させなくても)自動的にこなせるようになったり。同時に「わたし」の方も強くなってきている。「表向きの私」には感情がないんだけど、メールなら自分がどう思ってるか把握できて、感情を込められるようになったとか。(これはブログに鍛えられたのかも。)そういうときの言葉遣いは「表向きの私」が身につけてきたものを使っているから、2つの人格は少しずつ統合されてきているのかも(?)

でも、まだまだ、人のいるところでは「表向きの私」が圧倒的だ。私の直感では、「わたし」がもっとおおっぴらに出てこない限り、またいずれ限界が来て、閉じこもらなくてはならなくなってしまう。

エネルギー吸血鬼談義とも絡むんだけど、「表向きの私」は、他人からエネルギーを吸い取って、そのエネルギーを四方八方にばらまいてるだけ。私だって辛いし、何より周りの人も迷惑だろう。

私は、他人の目(評価)以外のエネルギー源をこれから見つけるつもり。自分の中から沸き上がってくるそのエネルギーの源を見つければ、「わたし」が生き、「表向きの私」は力を失うはず・・・などと頭で考えても、しょうがない。行動しかない。。。んだよね。。。分かってる。でも「わたし」にはその気力がない。
今朝も、漠然とした恐怖で縛り付けられたみたいに動けなくて作業所を休んでしまった。

ブログでは勢いよく書いてたけど、実生活ではもう3日間ずっと横になって無気力。作業所もいけなかったくせに、活動するのかよ、ていう気持ちもあるみたい。ああ悪循環。

外の人と関わりたい、だけど怖い!怖い!怖い!

今までの恐れとは少し違うから、対処に戸惑ってる。今までは「怖いから人と関わりたくない」→「関わらなくてもいいから外へ出よう」って自分を鼓舞すればよかった。今は「人と関わりたいから外へ出たい」→「でも怖い!怖い!怖い!」って感じ。未知のものに対する怖さかな。

動かないとこの怖さはなくならないって分かってるけど動けなくなっちゃう。最近、自己の内面を分析することに偏りすぎていたのかも。頭だけで考えていてもしょうがない。実生活の中で、地に足をつけて生きなきゃ。

だから、初心に戻る。とにかく作業所を休まない!それが来週の目標。
今日はお休み。目覚ましはかけなかったが、朝8時に目が覚めた。カーテンと窓を開けて空気を入れ換え、お湯を飲んで・・・・・・・と、そこまで順調だったのに、布団に戻って眠ってしまった。「何もしたくない」状態で18時くらいまで布団の中。

パワストにしても、フラワーエッセンスにしても、「それだけ」じゃ、何も変わらないってことを象徴するような日だったな。あくまで「私」が主体であって、私が動かないと何も変わらない。せっかく起きるのを楽にしてくれたのに、二度寝した私が悪い。

本当に何もしたくなかったけど、返さなきゃいけない本があったので図書館へ。もうすぐ満月の月がすごく綺麗だった。あまりに綺麗で、公園のベンチでしばし月光浴。月の光をみつめながら心をからっぽにして15分くらいだったろうか。気づくと、心の中の重さ、暗さが少し軽くなっていた。

パワーストーンは定期的に月の光に当てると、吸い取ったネガティブな影響などを解放することができるという(浄化)。人間も、同じなのかもしれない。

帰って、すぐに家にあるパワストたちを屋上へ持っていった。彼らが月の光を浴びてますます輝くように、それが持ち歩く私の助けになるから。オーラの泉を見終わったら家の中に入れてすぐ寝ようと思う。明日に備えて。
今日も休んでしまった。朝、どうしても布団から出られなかった。(実は今も布団の中・・・・・・)久々に何もしたくない。

そういえば、何ヶ月か前は、「何もしたくない」、「生きていたくない」とか毎日毎日書き続けてた。ここしばらく、「~をしたい」「私はこれからも生きていく」というポジティブなムードでいた。今日久々にその状態に堕ちたけど、たまに堕ちるのは当たり前のことだからしょうがない。

いつ、どんな時でもポジティブな精神状態でいること、理想ではあるけれど、もし、私がそんなに完璧な人間だったら生まれてくる意味がない、だからできなかった自分を責めることには意味がない。

ただ、なぜ今日起きられなかったかを冷静に分析することには意味があると思う。追記に。
1週間くらい家にいてくれた彼が帰ってしまい、しばらくぶりに1人になった。そしたら、動けない自分に気づいた。自分のために頑張ろうという気になれない。ただ布団から出るとか、ご飯を作るとか、着替えるとか、外出するとか、そういうことへのハードルが一気に跳ね上がった。歯を食いしばる癖からくる顎の痛みとか、今まで全然問題にしていなかった些細な自分の問題が妙に気になるようになってしまった。

先日「「人のために生きる人が一番強い」が分かった」と書いたけれど、ズレてたみたい。「人のために生きる」どころか、彼に頼り、依存していた。彼のために頑張る自分に生きがいを見いだしている。それは、子供や夫の面倒をみることに生きがいを見いだしている私の母と同じ精神構造じゃないか!!

上の記事を書いてからしばらくの間、私はメンヘラー脱出への手がかりをとうとう掴んだような気がして、気力に満ち満ちていた。でも今その時の自分のコメント返しを読み返すと病的な感じがする。うちの母みたいにはなりたくなかったのに、って思う。

自分というものがないままに、「人のため」と思って行動することで生きがいの源泉を得るのは、私の理想とは違う。生きがいの源泉は外からじゃなく、自分の内から沸き上がるべきものだと思う。(以上建前)でも、面倒をみることに依存していようが動ける母と、1人暮らしでパワーが何も湧いてこなくて動けない自分を較べてしまうと、動けるだけ母の方がずっとずっと偉いと思う。

今の自分は、自分がなくて、弱くて、1人では何もやる気が生まれない。じゃあ外に出ればいいんじゃないか。働けばいい。今の私が働くというのは、つまり、確固とした自分がないままに、「人のため」に行動することでパワーを得るっていう側面が1つにはあると思う。

ちょうど前回の通院で、睡眠リズムを治すのに短期バイトもいいんじゃない?と言われ(通院記録: 睡眠リズムを強引に整えるには)2週間~1ヶ月程度の短期バイトについて最近本気で考えていた。

さんざん考えたけど、傷病手当金が打ち切られることへの覚悟は、まだどうしてもつけられない。バイトの収入では今の家賃などを払いきれないから、派遣なり、正社員なりの働き口をすぐに確保しなければならなくなる。傷病手当金打ち切り後にすぐ失業保険が出たとして3ヶ月以内。下手すれば借金生活に突入してしまうわけで、正直そこまでの自信がない。

でもこのまま1人で家にいても、私の内からは行動するパワーは湧いてこないわけで、何かを変えなくちゃいけない。1人暮らしでの精神病療養&克服経験のある方っているのかしら・・・・・・

劇薬的手段として1つ思いついたのが、実家に、私は精神病で1年間無職でございますってことを告白して、ゴメンナサイして実家に帰るというもの。睡眠リズムは治るかもしれないが、同時に吹き出すと思われる大きな問題を想像すると・・・怖すぎる。でもそれもすべて克服できたら、一段階ステップアップできるのは間違いないな。(ま、こんなことを考えるようになっただけでも進歩か)
今日は総合病院まで一緒に行って診てもらったところ、彼はお腹の風邪とのこと。ノロウイルスだとか、盲腸だとか、そういうすごい病気ではなくて本当に安心した。熱と下痢と腹痛だけ、そういう風邪もあるらしい。病院で点滴もしてもらって、激痛だったお腹はかなり落ち着いた模様。

この4日間無我夢中だった(というほど何もやっていないけど^^)。私は軽く鬱傾向で微熱と頭痛があったから、いつもだったらずっと寝転がっているところだっただろう。でも目の前に自分よりもずっと体調が悪い、私の働きを必要としている人がいれば、こんな怠け者の私でも知らないうちに動けてしまうんだ、というのは驚いた。自分でも自分じゃないような行動だったと思う。どこからパワーがやってくるのか・・・・・・ただ夢中で動けていた。

「人のために生きれば力が湧いてきます」と美輪さんがおっしゃっていたけれど(necox beta2.0 人のために生きる人が一番強い)それを地でいった感じ。「母は強し」とかもこんな感覚なのかな?

”生きる力”、確かに、今、私にあるみたい。ずっと、私なんか生きててもしょうがないとか、何もしたくないとか、早く死にたいとか思っていたけれども、「自分のため」を脇に置いておいて、「人のため」に自分の存在を活かすということが初めて実感として分かった。

今まで本当に自分のことしか考えてこなかったな。もしかしたら・・・彼は私にそれを気がつかせるために病気になってくれた、というのも一面としてあるかもしれない。彼の病気に感謝だ。(そう思っていたら、オーラの泉の新春スペシャルで、江原さんが「災い転じて、福となす」について話していた!)

彼はもうすぐ良くなる。良くなって、いつもの優しい、なんでもやってくれる彼に戻ったら、また私は動けなくなっちゃうのか?そんなのいやだ。動くのは大変だけど、動き続けていたい。この気力をキープしていたい。できるか?
にんにく超たっぷりのリゾットを作って食べた。食べてる途中、、心の奥から感謝みたいな思いがわき出して、涙が出てきた。ネガティブな気分がフーッと自分から離れていったような気がする。

いくら簡素でも、手作りのものを食べることで、ムードを変えられる。

食べてて分かったこと。結局、私はいまだに死に憧れている天寿を全うして、あの世の人々やガイド達に祝福されながら迎え入れられるその時のことを夢見て暮らしている。それでいて「人が怖くない自分になりたい」が夢だって?この世にいたくない私が、なんでこの世での幸せを願っているのかな?しかも自分のことしか考えてない。

本気で楽になりたいなら、この世での自分の幸せ(利益的なもの)を放棄する覚悟が必要な気がする。私利私欲から発するものは何も望まないと。

人を怖がっているヒマがあったら、
・・・・・・一体何をすればいいんだ?
(なにもしたくないよ、死んで楽になりたいよ、という声が聞こえる。
でも、実際、自殺しても楽にならないらしいんだよね。)


以下2006/12/23 補足:
「死に憧れている」という表現は許せない、というご指摘をいただきました。この表現が、いじめなどで苦しんで、でも必死で生きてる、でも逃げたい、という若い命を持っている方などの目に触れたら、死に逃げこむ人が出てくるだろう、という指摘です。確かに、そのように誤解される方がいらっしゃるかもしれませんので、私がこの記事で言いたかったことを、もう少し補足します。



生きることが苦しい方へ

生きるのがつらいですか?
苦しいですか?
死にたいですか?
死んだら楽になる、と思いますか?

あなたが、自分に与えられた人生を、あらゆる苦難に耐えて、生き抜いて、寿命をまっとうして死んだのなら、痛みも苦しみもない美しい世界へと行けるでしょう。(死んで楽になる、というのはそういう意味です。)

でも、もしあなたが、自殺することで、生きる苦しみから逃れられると思ったら、大間違いです。断言します。自殺してもあなたの苦しみはなくなりません。無駄死にです。死とは無になることではありません。もし自殺したら、あなたは今の苦しみの渦中でずっと苦しみ続けるのです。

自分には生きる価値がない、と思いますか?
生き抜くことに価値があるんです。まわりがどんなひどいことをしようと言おうと、あなたがまわりにどんな迷惑をかけようと、どんな辱めを受けようと、生きることに価値があります。

どんなにぶざまでも、ただ生きていればいいのです。

ただ生きていれば、いつか、「今」の苦しみは過去のものになります。「今」があまりに辛くて、死に憧れる気持ち、分かります。でも、自殺の先に待っている世界は、あなたが想像するような楽なものじゃありません。自殺は、「今」の苦しみに留まることを選ぶようなものです。

恥ずかしいこと、辛いこと、苦しいこと、人に迷惑をかけるようなことばかりでも、ただ生きていることに価値があるんです。

だから、私も、ただ生きています。
今朝書いた今日も時間療法・・・起きているのが辛いの結果。8時頃に眠ってしまった。そして15時頃起床。あー!ここ数日間の努力がすべて水の泡!

私の体内時計は、14~15時頃を朝だと思ってしまっている。それを・・・2時間ずつ遅らせていこうっていうのが主治医の指導だったのに、18時まで遅らせたつもりだったのに、また元に戻っちゃった。

一番の問題は、朝8時とか9時頃に起きているのがものすごく辛いことだと思う。たぶん出勤を連想するからだと思う。相変わらず、働くことから逃げているのかな・・・・・・

とにかく時間療法はリセット。明日は朝10時頃に寝て18時頃起きるのを目標にしようと思う。10時まで寝ないでいられるよう頑張ろうと思う。
昼夜逆転を治すための「時間療法」が全然うまくいかない。

起床時刻を2時間ずつ遅らせたいんだけど、自分にとっての適正睡眠時間が分からないから、就寝時刻が決められない。結局、眠気が限界になった時に寝てしまう。短時間で目が覚めるから、二度寝、三度寝して、起床時間の帳尻を合わせている。「睡眠時間が6時間超えたら二度寝はしてはいけない(通院記録: 人生相談になってしまった)」って言われているのに。

今日は20:00頃に起きるのが目標だ。そのために、午前中、買い物や掃除などで身体を疲れさせて、正午頃眠るのが理想かな、と思っているのだが・・・・・・

今、この瞬間、起きているのが辛い。眠いわけじゃない。何もやりたくないんだ。体を起こしていたくない。何もやりたくない。PC上での読み物や調べ物は確保してあるけれど、PCの画面見ているのも辛い。PC消したい。でもPC消したら眠ってしまうだろうから、消せない。横になりたい。でも横になったら眠ってしまうだろうから横になれない。読書も辛い。本読もうとすると眠くなる。
今日は強引に夜眠って朝起きたかった。眠くもないのに、0時前に布団にもぐって、眠ろうと頑張った。けどだめだった。(眠ることを頑張るなんて、よっぽど他に頑張ることがないのだと、自分でも呆れてしまう。いつでも、どこでも、何時間でも寝られる私でも、変に頑張るとダメなんだ、ってことがよく分かった。)

もう、今何時だよ!、ってPHSみたら、4:44!
444の意味を調べるためにも起きることにした。
444
今、天使があなたを囲んでいて、その愛と助力があることを保障しています。
天使の助けがそばにいあるので心配しないこと。

そっか。今日はこのまま起きてて、朝一番で病院へ行こう。先生の言うことにまかせよう。独り善がりの頑張りなんて手放してしまおう。

   

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